東松島市の史跡・文化財の案内

 
以下の文及び写真は平成6年3月に
旧鳴瀬町教育委員会より発行された
「鳴瀬町の指定文化財」を参照してい
ます
えんずのわり
 

えんずのわり
宮戸の月浜地区には正月の行事「えんずのわり」が古くから伝わっている。現在は小学校2年生から中学校2年生までの男子が五十鈴神社の参道に造られた岩屋に集まり、1月11日から1月15日にかけて、おこもりをして寝食をともにし、精進料理を食べながら鳥追いの行事を行います
岩屋にこもった一同は、毎朝起床とともに神社の内外を掃き清め、恭しく礼拝し、その後、食事し学校に通う日々を送ります。おこもり中は、中学2年生が大将となり、全行事の運営にあたります。12月中には行事のハイライトに使う松の木を伐り、2メートルの棒にぎほしをつけておきます。14日の晩には、神木(松の木)を持ち、五十鈴神社から月浜地区の各戸を「えーえーえーえんずのわりとりょうば かずらわってすをつけて たあどうかあみさあ だみーいーれーで えんーどがすんまさながせ えーえーえー」と三回唱えながら家の前で神木を地面につき、鳥追いの厄払いをして歩きます
古老の話では、いつごろから始まったのかわからないが、200年くらい続いているということである



天保八年三界万霊供養碑

(さんかいばんれいくようひ)
東北をおそった飢饉のうちもっとも被害の大なるものは、宝暦5年 (1755)の宝暦の飢饉、天明3年(1783)の天明の飢饉、天保4〜7年 (1833〜1836)の天保の飢饉の三つをあげることができる。特に天保 4年の気候は不順で霖雨、寒冷の天候が続き天保7年に至って飢饉 から疫病が蔓延しておびただしい死者がでた。(伊達領内での死者 は約3万人と言われている。)この碑は、もと鳴瀬川の舟渡場 (今の舟渡町川畔)に天保8年4月に小野の人々によって造立された
が、鳴瀬川の改修工事により功岳寺の境内に移された。死者の霊を 供養すると同時に致命的な物価を刻んで子孫に備荒貯蓄を戒めた もので、伊達領内には数多くの飢饉の供養碑があるが、主食の物価 を刻んだ飢饉石文は伊達領内に唯一あるのみで誠に貴重な石文で ある
 なお、当時の米の値段は通常1升につき38文から40文であるから天保8年には420文と、とてつもない高騰を示していることがわかる

道しるべ石(小野) 
( みちしるべいし)
道標には道案内を主体としたものと、他の目的で建てた石仏や供養碑の類に道案内の銘文を併記したものと二種類ある。小野の田町の三叉路の道標は道案内を主体としたもので天保 10年(1839)今から155年前に源有庸という人によって建てられたもので「右いしのまき道四里」「左ひろぶち 二里半」と刻まれている
造立年号と造立者の氏名 、又それぞれの目的地までの距離まで記されていることはまことに親切 な道標であるといえる。小野の地は、往時より金華山道、石巻街道(東 浜街道) 気仙道とが通っていて、交通上重要な地域であった。この地点で道は二つに別れ左方は大塩、広渕を通って気仙沼に、また右方 は、矢本を通って石巻あるいは渡波より船で金華山に通ずる重要な道路となっている
道の傍らにおき忘れられたかのように苔むして建っている道標は昔の旅人にとっては誠に大切な道案内であった。この道しるべ石は、当時の交通路の位置とその発達過程を知る貴重な資料である


阿弥陀三尊種子板碑

(あみださんぞんしゅしいたび)
この碑は、阿弥陀三尊形式の大型板碑で、しかも蓮華座・月輪・天蓋・瓔珞を完備しているという点から、石巻地方ではごく貴重なものとなっている。彫りは、単純な薬研彫だが、鋭くしかも気品があり、鎌倉前期の優秀な作品といえる。紀年銘は中央一行に中世特有の形式である年次の下に干支を付す形で刻まれている。その右に「右志者兵衛五郎入道」の文字があるが、下四字ほどは土中となっている。板碑に被葬者もしくは供養者として個人名をみることは、大変珍しく、ことに長江氏と目される「五郎入道」は、当時の乏しい文献資料の空間を埋めるものとして貴重な板碑である


正和四年板碑
(しょうわよねんいたび)
板碑は、一般的に上部に主尊(佛)の種子(梵字)又は佛像などを彫り、その下に供養文(偈文)、銘文(造立趣旨)、年紀、歴名などが刻まれている。この碑は上部に薬研彫の梵字が三文字、中央は阿弥陀如来を表すキリーク、右は脇侍の勢至菩薩のサク、左は脇侍の観音菩薩のサであり、これを合わせて弥陀三尊という。偈文は阿弥陀如来や観音の功徳を説いたものと解釈される。銘文のところは長江弥九郎の供養のために建てたものであり、梵字の弥陀三尊の持つ意味から百ヶ日、一周忌、三回忌の何れかの時に建立したものと推測される。建立者は沙弥桂海敬白の文字から桂海という人とも推測され、建立された正和4年は今から679年前の執権北條高時と時代に当たる。当時深谷の地は長江一族が領した土地であったが、太郎義景から月輪に至る660年間(文治5年〜天正9年)は資料がなくはっきりしない。この板碑によって長江一族の一人である弥九郎なる人物が当時実在したことを知り得る



大塚不動尊の梵鐘

(おおつかふどうそんのぼんしょう)
大塚の五十鈴神社は、本来一霊石を本尊(不動明王)とする仏堂であった。明和9年(1772)の封内風土記にも「大塚浜・・・仏字1、不動堂。不詳何時建。石仏也。土人曰く之柿不動」とある。境内にある梵鐘は貞享元年(1684)今から310年前深谷小野町の大泉七左衛門という人が奉納したもので、梵鐘には「大日本国奥州桃生郡深谷郷大塚浜海畔ニ一ヶ霊石有リ。其ノ形大聖之尊像ニ似タルヲモッテ不動明王ト曰フ。之ヲ信ジ之ヲ敬ヒ茲ニ有年。且ツ其ノ霊験ヲ感信ス。而シテ是ヲ邑里ノ側ニ移シ。一宇小堂ヲ建テ以テ現世ノ安穏後世ノ善所ヲ祈ル者也。至祝至祷。貞享元年九月二十八日。深谷小野町、願主大泉七左衛門。御鋳筒屋吉兵衛良定作」とある。以下訳 大塚の海岸に一霊石があり、形が不動尊に似ていることから不動明王といった。これを信じ幾年か経たがその霊験あらたかなので、小堂を建ててこれを移しもって現世の安穏と来世の善所を祈ることにしたというものである。梵鐘は戦争の徴発にも免れて今日まで残ったことは不動明王の霊験といわざるを得ない。



東薺塩場の碑

東名の如月庵の境内に仙台藩製塩業の功労者である伊藤信茂に関する資料と、東名塩田開発者の奈良和元直の功業をたたえた「東薺塩場の碑」が建っている。この碑は、享和2年(1802)元直の子元平によって立てられたとある。碑によれば、安永7年(1778)元直が藩命を奉じてはじめて東薺浜に塩場を開いたとある。そして当時の東名の様子や奈良和氏の先祖(初代信茂 長州出身)が代々製塩をもって仙台藩に仕えていたことなど克明に記されている。碑文は、仙台藩の鉅儒と称された志村五城の撰文で彫りの浅い細字の漢文体でその上草書で磨耗がはげしいので読解は容易でない。しかし碑は東名塩業のみならず仙台藩の塩業史を知るうえでまことに貴重な資料である



道しるべ石
(上下堤) 
みちしるべいし(じょうげつつみ)
この道しるべは石は、八幡神社の境内になかば埋もれていたのを昭和56年国道45号線から旧道にのぼる坂道の上り口(現在歴史の道案内板のところ)に移されたものである。恐らく、国道45号線が整備されるとき八幡神社に持っていったと思われる。板状の稲井石で高さ90cm巾33cmの小形な碑で磨耗がすすむ碑文によると、上下堤村の善教という願主が富山観音に30日間の裸参りの荒行を18年間も続け満願成就の記念にこの道標を建てたと記されている。



文永十年の板碑

(ぶんえいじゅうねんのいたび)
根古松岩寺にある文永十年の板碑は高さ150cm、巾45〜30cm、厚さ20cmの直方体の粘板岩でできており、まことに立派な堂々たるものである。頂部は二段に線引きされ、上下に夫々梵字が薬研彫で刻まれている。当初は円相の中に七佛の梵字を配置したものと推測されるが現在は三文字は完全、二文字は一部分、他は欠損のため見ることはできない。その偈文は「我既往生彼國邑。現前成就次第願。一切圓満尽無余。利益一切衆生界。」とあり、これは華厳経の偈文と判明した。本碑は数少ない町内の板碑の中でも一番古く、貴重な文化財といえる。建立された文永10年は今から711年前鎌倉幕府執権北条時宗の時代で、元軍が来寇した一年前に当たる。当時深谷の地は長江一族が領しており一族と深い関係があるものと思われる。

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